ホットケーキは生がいちばん

頭ゆるゆるなインターネット

きたない

自分の顔が汚い

ブサイク


髪色を変えてからそれが引き立つ。

暗い色の髪だと手入れをあんまりしてないとか、くせっ毛だとかがすごくよくわかる。嫌だ。

全然いいと思えない。自分が全然いいと思えない。きたない、ブス、デブ、あぁ…。

もうちょっと、似合うと思ってた。周りの女の人を見ると憂鬱な気持ちになる。人権を根こそぎ奪われていく感じ。可愛くなれたら。美しくなりたい。まずチョコレートやめなよ、なんてそんなかんじ。

太った


あれ太ったとは思っていたけど今見た目からしてとんでもないことになっている。


なにきてもダサい。これまでオシャレだと思って着ていた服が着るとださい。


ダサいのは自分の体型だった…。



そして去年の写真を見比べると顔の迫力とかなにからなにまで違って感じる。腰とかもう少しくびれてませんでしたっけ!?えぇ!?






かおもむくむく。なにしてもかわいくないもともとゴリラなのに。憂鬱じゃ。


今まさに生理中ってやつだけど走りたい。お腹痛いけど走り出したい。なぜここに至るまで気付か…いや気付いていたけどなんか痩せないんだもん。ううー。


前よりも運動を確実にしているのにむくむくするのは絶対チョコレートの食べすぎだ。あぁーーー。



でも今回旅行に行ったけどご飯沢山食べたけど甘いもの全然食べませんでした。えらい。のか?


これ以上肉を蓄えふてぶてしい顔にならないようにつとめます。







むむ

私ねメールの返信止めるくせに止められると

寂しくなるっていうか気になっちゃってだめなんだよー、慣れない。


って言ったら友達にほんと自己中だなーと言われた。そう、自己中なんです。



自己中でワガママだと思う。ちょっとしたことで機嫌を損ねて不貞腐れて人に八つ当たりもする。そういう人間であることをやめようとしばらく人格を矯正してきたつもりが最近そういう悪癖が出る。


そしてあまりにも刹那主義というか、昨日良くしてもらえたからといって今日もとは限らない。心変わりしてるかもしれない、という不安半分と今日はないんですかの自己中半分なのかもしれない。


でも今日はさすがに身に沁みた。これまで交わした言葉を振り返ってもそうだった。家族にしても周りの人にしても。どうしてそこまで優しいのだろう。私の望みは叶えられることが多いのだろう。こうしてくれたら、こういう言葉をもらえたら、はなぜ叶っていたのだろう。もうティファールのフライパン降ってこいなんてワガママ言いません。


嬉しかった。自分の生活リズムを狂わせてまで近くにいてくれるような優しさになぜか弱い。思い返して背徳感と胸の真ん中が熱くなる気持ちが入り乱れる。



本当は自分にそんな優しくされる価値は…と言いたいところだけれど自分の価値を自分の言葉で下げてしまうのはよくないという文章をみたのでやめようと思います。ただ、ありがとう。






だいたい

起こってほしいことなんて大体は現実にならない。


理想、現実、妥協点。


最近物事をきちんと考えていない。というよりは考えて行動していない。行き当たりばったりの行動に一喜一憂している。私はいつの間にやら猿にでもなってしまったんだろうか。







好きな人は見る度に美しく放つ光の強度を増しているのにどうしてその人のいる場所は斜陽かのごとくどんどんと暗い影を落としていくのだろう。もうダメだと思う。熱気がない。覇気がない。バンドに熱がなければもうおわりだと思う。前のバンドがすごい勢いで盛り上がった後にあんなにしらっとした舞台があってたまるか。ねぇ君も途中で泣きそうになってた。静かな会場を表情のない目で見てた。どうして盛り上がってあげないんだろう。私が叫んでも腕を上げても1人では意味がない。どうしてメンバーの減った舞台は見れないって黙って一番前にいたのだろう。まぁいいか。いいのか。もう全部過去なのだから。1時間くらい前の出来事だ。さようなら。




眠たさに身を委ねる

ねむたい。ねむたい。moです。


台風による低気圧のせいかどんよりとした気分で眠くてだるい。あと気が短い。


ぼけーーーーーっとしていた。忘れ物も多かった。ただ自分で今日の自分天使みたいに可愛いなというよくわからない気持ちの悪いフォローを入れて気を落ち着かせていた。


こんな日は悪いことを考えると際限がないから寝てしまうに限る。今日は言葉を発することも面倒で人前にいても話しかけづらいオーラを客先以外で出していたきがする。もう全てが面倒でたまらなかった。話しかけられることや決まりきったジャブ、要望の前の枕詞を聞くのも面倒くさくなってしまっていた。いつもごめんね、とかあの人に聞いたんだけどよくわからなくて、とかだいたいわかってるから面倒だった。でも言わないと言わないで失礼にあたるし結局私の受け皿の問題だ。でも面倒だった。どうしてもやっても出来ないことがあるしそれは自分もそうなのだけれど自分が声をかけたり教えたものに関して出来ないと言われるとお前の教え方が至らないせいだと責められている気がするし、っていうかほかの人はどうしてゆっくり丁寧に教えておいてくれないんだろう。相手にわかる言葉でちゃんと説明しておいてくれないから私のところに枕詞付きで質問が飛ぶんだ。それに対して私はその答えと一緒に「あの人はちょっと説明が足りなかったよね」とか「慣れだし大丈夫だよ」とか一言添えなければならない。これらは全部本当のことなんだけど、こういう言葉を1日に何回も発して、何回も同じ「至らない自分」に向き合うことは大変。疲れる。


生理前だからなのかそもそもどうして私にわからないことを聞く、という立場なのに私の手を止めさせて自分の方に呼びつけるんだとか些細な文句が止まない。どうして人と話してる時だの人の質問に乗ってる時に呼ぶの、とかその内容が後でもいいようなやつなの、とか。それをなんで緊急っぽく言うの真摯なリアクションとるのいちいち面倒なんだからとか、止まない。なんで私がバタバタ小間遣いのように、みんなの書類作成の世話をして自分のやらなければならないことを疎かにしてそれを指摘されないといけないんだ。

それは自分の要領も悪く、書類作成に関する周知も足りてないからだ。きちんとみんなが出来るようにルールを整えるのも仕事だ。でももう考えたくない。もうねむたいから。眠たい割には沢山書いた。愚痴を吐き出すと止まらない惨めな人種だからか。



やっぱり、怒りとか悲しみとか悔しさだとかそういう気持ちは要らないものだと思う。


この前インターネットのどこかで、アンドロイドのペッパーくんは業務用だと悲しみや怒りの感情を消されると聞いた。

悲しみがあると怒られると悲しくなって仕事が手につかなくなってしまうから、らしい。


人間に似せたロボットから人間にある感情を取り除くことに関して少し物議を醸していて、私も人間の都合の良さは酷いものだな、と思ったけれどそれと同時にやっぱり怒りや悲しみって要らないんだ、と思った。

他人は私と接する上で怒りや悲しみを必要としていないことはこのロボットの話でも明らかだと思う。怒りや悲しみは面倒なのだ。自分のものでも面倒なのに他人のものならなおさらじゃないだろうか。


私はどうだろうか、と言うと好きな人の悲しみや怒りにも寄り添いたいと思う。友達でも付き合う人でも家族でも。ただ、他人全員にそうかと言われたら正直わからない。道行く人の怒りに簡単に感情移入できない。


でも…うーん。やっぱり自分のそういう対外的にむだな感情はなくなればいいのに、とも思う。でも悲しみがなければ誰かのそれにも寄り添えないのでしょうか。








始業が自分は遅い日だったのに早く家を出てしまったから更衣室で少し寝ていた。

その時に変な夢を見て、その夢で私は靴下を履いていた。

あれ、この靴下昨日履いて今日朝に洗濯したよな…と思ったことで気が付いて目が覚めた。不思議なものです。

灰色の雲が覆う青い空

 

 

雨音。

 

 

青い空を灰色の雲が覆っていく。雲行きが怪しいですね、なんて言葉を交わす前にぽつりぽつりと頬を濡らす雨粒。そのうちにコンクリートは水玉模様になり、やがて濃いグレイになる。ザア、と音を立て降り続く雨。草木も濡らされていく。傘を忘れて逃げる人、傘を開く人、コンビニへと走る人。

 

雨が降り出す様子が好き。ざあざあと、降り続く雨音を聞いているのも心地がいい。今も、地面を濡らし続ける雨音を聴きながらカタカタとタイピングをしている。相変わらずミスタイプが多く、今日はbackspaceとinsertを間違える。消そうとしたら、その文字が青く染まって、あれ、あれ。って。

 

青が恋しい。青い空が見たい。

雲一つない空をperfect skyと言うらしい。それを知ってから、学校のことで海外に行ったときに海沿いで見た空がまさにそれだった。

はじめて見たかもしれない。一面の雲一つない空。実際には見たことはあるのかもしれないけれどあんなに記憶に焼き付く空は初めてだった。その言葉がタイトルになった曲を頭の中でかけながらずっとその空を見ていた覚えがある。それから、時々思い浮かべてしまう。蒸し暑い気温と、青い空と、青い海と。その場所では名物になっている魚のフライを投げると群がるカモメの大群。

 

例えば、雨の日を天気が悪いと言ってしまうのはどうなんだろうとか、雨は雨で悪くはないよねとか、そういう論じ方もあるけど。パーフェクトスカイっていうのは本当に完全な空、という意味では言いえて妙なのかもしれない。白い雲も、灰色の雲も、ビルもなにも、太陽すら邪魔できない景色。完全なもの。って。

 

 

 

なんてことを書いていたら雨音が弱まってきた。寝静まっていた街が活動を始めて雨音をかき消しているのかもしれない、そう走り出したバイクの音を聞いて耽る。物思いに耽る。

 

雨…そう、雨は、私は傘を持つ手間があるのであまり好きではない。部屋の中にいるだけでいい日ならまだしも、傘を持たずに濡れてもいいような日ならまだしも、人前に立つだの、一応人間という面子を気にしなければならない日は大変面倒だからだ、

 

でも、今日は雨が降らないかなと思っていたから。そんなに世の中うまくいかないと思いながら、雨が降ることを望んでいたから。言葉のチョイスがおかしいかもしれないけれど恵みの雨、なのかもしれない。ただ24時間365日その気になれば簡単に実現できる時間をもう一度繰り返したいという私のエゴ、希望、願いを叶える雨。ある種のアンコールを叶える雨。

どうして人は…私は、何度でもその気になれば繰り返すことのできることなのに一番であることを望んでしまうのだろう。いつでもできることを一番にしたくなる。いつでもできるのに、今してしまいたい。そしてそれをしたらまた、もう一度、もう一度、と止まないのだ。

まるで中毒。

 

 

I go crazy about .......

 

 

なんちゃって。

 

この私は○○のせいで狂っていくという一文で、crazyという形容詞にgoが重なるのがなぜかその言葉を知った時から気に入っている。狂ってしまう症状に自ら足を踏み入れていく表現がまさにそうだな、と思って。

 

 

 

 

 

一歩一歩、確実に足を進めていく。

その先にあるものはなんだろう。

 

 

 

 

パラレルワールド


平行線の向こうにいる自分がいる



正直に生きるにはあまりにも面倒な世の中だ。欺いているつもりはないが、正しくもいない。そもそも正しさとは何なのだろう。良心の呵責さえなければ、人は嘘をつくことが出来るのだろうか。欺き続けた先には何があるのだろう。


それは無だと思う。


別についてもつかなくてもどうでもいい嘘だからだ。どんな嘘も最終的にそれが重要なのは本人だけなのだ。何故ならば他人にとって自分の言葉や人生は他人の人生だからだ。自分の人生にとっては他人の嘘も真実なのだ。


逆に言えば色眼鏡をかけてしまえばどんな真実も嘘なのだ。だからどうでもいいはずだ。他人の愛も言葉も想いも生き方も所謂嘘でも構わない。なぜなら私にはそれが真実に見え、また都合のいい局面で嘘に見えるからだ。


どうでもいい。それなのに何故本当を求めて徨迷ってしまうのだろう。言葉の真意を求めて勘繰ってしまうのだろう。









未だに言っていません。さようならを誰にも伝えていないからまだ私の赤い糸は小指に繋がっていると思われています。こんな小指は腐り落ちてしまえばいい。ウソです。痛いのは嫌だから。

その人はお元気にしているでしょうか。元気でいてください。


悲しい。どうして気持ちをすぐに忘れてしまうのだろう。素晴らしい感情をすべて真空パックに閉じ込めたい。私の感情は、すぐに記憶から抜け落ちなくなってしまう。だから悲しい。


喜ばしい感情は実際そこに直面している時にはその感情に夢中で言葉を紡ぐことを忘れてしまう。そして何かに挫け、躓いてしまった時に必要となる時には言葉などなく想い出の残り香 を探すだけ。


幸せな時ほどそれに夢中になってしまう。そしてそこから一歩離れた時に、自分が本当にそうであったのかどうかを疑ってしまうのだ。


浅はか。でも、仕方がないのかもしれない。

誰にとってもいらない私の感情は、ただ、私自身がただ、唯一、必要としている。唯一無二の感情。だから。